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名古屋大学平和憲章制定運動を振り返って
30年前の1987年2月5日、名古屋大学で戦争目的の学問研究は行わないことを誓った名古屋大学平和憲章を制定する宣言をする集会が行われました。30周年を記念して、名古屋大学平和憲章委員会が2月4日に記念企画「平和を願うリレートーク」を開催しました。当時、名古屋大学の学生として制定運動にかかわっていた私もお招きをいただきましたので、当日お話しした内容の要旨を掲載します。
私は、1985年に名古屋大学に入学しました。85年12月から当時の教養部学生自治会常任委員になり、87年2月の名古屋大学平和憲章制定集会までの間、教養部学生自治会の執行部の一員として平和憲章制定実行委員会に参加していました。
平和憲章制定運動に学生としてかかわった1人として、当時の思い出と、今の思いについてお話しさせていただきます。
1 時代背景について
平和憲章制定運動が展開されていた85年から87年にかけての時代背景について簡単に振り返りたいと思います。
①まず、当時は、第2次世界大戦後40年にわたって続いていた東西冷戦体制の下で、地球を壊滅させるような全面的な核戦争の危険についての危機意識が共有されていたことです。日本の原水爆禁止運動だけではなく、欧米でも80年代前半から反核運動が盛り上がっていました。
また、86年のチェルノブイリ原発事故も、核に対する危機意識を高めました。
特に、アメリカのレーガン政権がスターウォーズ構想といわれたSDI構想を推進しようとしていたことは、科学者の危機感を高めたと思います。
②次に、当時の日本では中曽根康弘首相の長期政権が続いていました。中曽根氏は自民党の右派の潮流を代表する政治家で「戦後政治の総決算」を掲げており、日本国憲法を占領軍による押しつけ憲法であるとして改憲に執念を燃やす政治家でした。中曽根政権の下で、政党法案やスパイ防止法(国家機密法)案が国会に提出されるなど、戦後の日本の民主的な政治体制と相容れない政策が追求されようとしていました。
③また、中曽根内閣の下で「臨調行革」といわれた行政改革、「臨教審」による教育改革が進められていました。
これらの「改革」は、現在から見れば新自由主義的な政策を展開する最初の動きになったと評価できるものですが、大学を含む高等教育機関についても、大きく位置づけが変えられようとしていました。
2 平和憲章制定運動のスタート
平和憲章は、このような状況下で、81年に教養部の教官が学生に対して「若い諸君に訴える」を発表、教養部の学生自治会が「名大平和憲章の制定」を提唱するという流れを受け、85年12月に名大職組、院生協議会、学生自治会、名大生協が中心となって名大平和憲章制定実行委員会を結成し、本格的に平和憲章制定運動がスタートしたのです。
3 平和憲章の草案作成
制定運動を始めてまず最初に直面したのは平和憲章のイメージでした。
私を含めて少なからぬ人は、平和憲章は最終的には評議会など大学の公式の機関で確認されるものの制定を目指すというイメージを持っていたと思います。しかし、最終的には教職員、院生、学生、生協職員など大学の構成員の総意として確認するものというイメージが確認されるようになりました。これは、当時の状況下での大学のあり方の模索という意味を持っていたと思います。
そして、平和憲章については草案を作成して、徹底的な全学討論を行おうという方向も決まりました。これは学生にとっては経験をしたこともない、かなり刺激的な方針でした。
4 産学協同と軍学共同
平和憲章の第1次案は86年6月に発表されました。
第1次案を受けて、様々な討論会や学習会がもたれました。教養部でも、学生自治会が何度が学習会を組織しました。
第1次案時代の議論で記憶に残っているのは「産学協同」をめぐる議論でした。私たち文系(学生だけでなく)の人間は、産学協同は学問の自主性を損なうという危惧を前提としていたと思います。他方、産業界との共同研究の実績を持つ理系の研究者からは、産学協同を罪悪視する見方は受け入れがたいものだったようです。そのため、第1次案では2項として積極的に産業界などと協力していくことを謳い、3項で軍学共同には絶対に反対するということが盛り込まれるという構造でした。
教養部の学生の議論の中で、産学協同を積極的に位置づけるのであれば、2項と3項を入れ替えるべきだ、という提案が出されたことを鮮明に覚えています。
結果的には、最終的に確認された平和憲章は2項と3項が第1次案と入れ替わっており、学生の議論もなかなか中身があるものであったと思います。
5 平和憲章の批准運動と学費値上げ反対闘争
平和憲章の制定は、当時の名古屋大学の構成員の過半数を超える批准署名を積み重ねることで、構成員の総意として確認するという方向が確認されました。
平和憲章の最終案が確定したのが86年11月、それから3カ月の期間をもって批准運動が始まりました。批准運動の中では、学生の動向に注意が払われました。当時の名大の構成員は、教職員が4000名ほど、院生が2000名、学生は8000名ほどだったと思います。学生の中で過半数に近い署名が集められるか。特に教養部の学生が約3700名を占めていたので、教養部の責任は極めて重いことになります。
ところが、平和憲章の批准運動が始まるのとほぼ同時期に、国立大学の学費値上げ計画が明らかになり、全国一斉ストライキを含む学費値上げ反対運動が提起され、学生自治会はストライキ運動にも取り組むことになりました。
平和運動制定実行委員会からは、批准運動への力が削がれることへの懸念が出されたと思いますが、結果的には学費値上げ反対闘争に全力を挙げて取り組み、その後批准運動を進めるということはよかったと思います。国立大学の学費値上げは、「受益者負担」という考えを推しだしたものであり、大学のあり方を変えるという点で平和憲章を制定する必要があるという判断と根底で共通するものでしたし、学生にとっては本当に全学生を対象とした運動に取り組むという経験を持ったことが批准運動の力になったと思います。
同時に、平和憲章に署名するというのは、一人一人の学生にとっては、ハードルの高い判断を迫るものでした。署名するかどうかを本当に悩み、よく考えて、署名しないことにしたという学生もいました。
教養部の批准率は40%くらいでした。過半数に達しなかったことに残念さはありましたが、重みのある40%だったなというのが率直な感想でした。
6 30年後の今・・・
平和憲章の制定から30年が経ちました。30年前を振り返ることは必要ですが、懐かしんでいる場合ではありません。
研究予算が抑えられる中で、防衛省の研究開発費が増額されています。軍学共同に道を開きかねない議論が学術会議で行われています。一方軍事研究には手を染めないということを表明する大学も現れています。平和憲章で議論した内容は、極めて今日的でヴィヴィッドな内容です。
軍学共同を推進することの障害を除去しようというのは、現在様々な分野で起こっている事態、つまり「戦争ができる国づくり」をめざし、そのための障害を取り除こうという動きと軌を一にしています。
私は大学人ではなく、研究者でもありませんが、弁護士という大学で学んだことを踏まえて専門職として働く者として、30年前、平和憲章制定運動に参加し、学んだことは、私にとっての指針でもあり続けています。
弁護士として、原爆症認定問題に一貫して取り組んできました。被爆の実相に学び、核兵器の使用を絶対に許さず、核兵器を廃絶するというのは、日本の平和運動の大きな特色です。今も続く原爆被害の実態を明らかにし、被害を矮小化する日本政府と闘いながら被爆者の救済を広げていくという活動の、原動力を与えてくれたのが平和憲章制定運動です。
また、平和憲章制定運動の過程で、平和の概念について学んだことも大きなことでした。「平和とは、単に戦争のない状況をいう」という消極的平和概念に対し、「平和とは、単に戦争のない状況にとどまらず、貧困や抑圧、環境破壊など構造的な暴力のない状況」を意味する積極的平和という概念を学びました。安倍内閣の下で唱えられている「積極的平和主義」とは全く異なる思想ですが、貧困や格差が拡大する日本社会において、平和を考えるうえで、構造的暴力や暴力を容認する文化との闘いを重視する積極的平和という概念は極めて重要です。
30年前、冷戦構造下での全面的核戦争の危機、中曽根内閣の下での憲法破壊の危機、臨調・臨教審路線による大学の危機、といった状況と比較すると、今日の状況は極めて深刻なものです。
私たちは平和憲章を「生きて働く規範」として確認しました。
名大平和憲章は過去のエピソードではなく、時の権力や権威によって平和や民主主義が脅かされようとするときに、平和憲章に参加した経験を持つものがこれと闘うための拠り所となり、また新たな拠り所を作る動きを生み出す力になるものと信じています。
名古屋大学平和憲章(全文)
わが国は、軍国主義とファシズムによる侵略戦争への反省と、ヒロシマ・ナガサキの原爆被害をはじめとする悲惨な体験から、戦争と戦力を放棄し、平和のうちに生存する権利を確認して、日本国憲法を制定した。
わが国の大学は、過去の侵略戦争において、戦争を科学的な見地から批判し続けることができなかった。むしろ大学は、戦争を肯定する学問を生みだし、軍事技術の開発にも深くかかわり、さらに、多くの学生を戦場に送りだした。こうした過去への反省から、戦後、大学は、「真理と平和を希求する人間の育成」を教育の基本とし、戦争遂行に加担するというあやまちを二度とくりかえさない決意をかためてきた。
しかし、今日、核軍拡競争は際限なく続けられ、核戦争の危険性が一層高まり、その結果、人類は共滅の危機を迎えている。核兵器をはじめとする非人道的兵器のすみやかな廃絶と全般的な軍縮の推進は、人類共通の課題である。
加えて、節度を欠いた生産活動によって資源が浪費され、地球的規模での環境破壊や資源の涸渇が問題となっている。しかも、この地球上において、いまなお多くの人々が深刻な飢餓と貧困にさらされており、地域的および社会的不平等も拡大している。「物質的な豊かさ」をそなえるようになったわが国でも、その反面の「心の貧しさ」に深い自戒と反省がせまられている。戦争のない、物質的にも精神的にも豊かで平和な社会の建設が、切に求められている。
今、人類がみずからの生みだしたものによって絶滅するかもしれないという危機的状況に直面して、われわれ大学人は、過去への反省をもふまえて、いったい何をなすべきか、何をしうるか、鋭く問われている。
大学は、政治的権力や世俗的権威から独立して、人類の立場において学問に専心し、人間の精神と英知をになうことによってこそ、最高の学府をもってみずからを任じることができよう。人間を生かし、その未来をひらく可能性が、人間の精神と英知に求められるとすれば、大学は、平和の創造の場として、また人類の未来をきりひらく場として、その任務をすすんで負わなければならない。
われわれは、世界の平和と人類の福祉を志向する学問研究に従い、主体的に学び、平和な社会の建設に貢献する有能な働き手となることをめざす。
名古屋大学は、自由濶達で清新な学風、大学の管理運営への全構成員の自覚的参加と自治、各学問分野の協力と調和ある発展への志向という誇るべき伝統を築いてきた。このようなすぐれた伝統を継承し、発展させるとともに、大学の社会的責任を深く自覚し、平和の創造に貢献する大学をめざして、ここに名古屋大学平和憲章を全構成員の名において制定する。
- 一. 平和とは何か、戦争とは何かを、自主的で創造的な学問研究によって科学的に明らかにし、諸科学の調和ある発達と学際的な協力を通じて、平和な未来を建設する方途をみいだすよう努める。
その成果の上に立ち、平和学の開講をはじめ、一般教育と専門教育の両面において平和教育の充実をはかる。
平和に貢献する学問研究と教育をすすめる大学にふさわしい条件を全構成員が共同して充実させ、発展させる。- 二. 大学は、戦争に加担するというあやまちを二度とくりかえしてはならない。われわれは、いかなる理由であれ、戦争を目的とする学問研究と教育には従わない。
そのために、国の内外を問わず、軍関係機関およびこれら機関に所属する者との共同研究をおこなわず、これら機関からの研究資金を受け入れない。また軍関係機関に所属する者の教育はおこなわない。- 三. 大学における学問研究は、人間の尊厳が保障される平和で豊かな社会の建設に寄与しなければならない。そのためには、他大学、他の研究機関、行政機関、産業界、地域社会、国際社会など社会を構成する広範な分野との有効な協力が必要である。
学問研究は、ときの権力や特殊利益の圧力によって曲げられてはならない。社会との協力が平和に寄与するものとなるために、われわれは、研究の自主性を尊重し、学問研究をその内的必然性にもとづいておこなう。学問研究の成果が人類社会全体のものとして正しく利用されるようにするため、学問研究と教育をそのあらゆる段階で公開する。
社会との協力にあたり、大学人の社会的責任の自覚に立ち、各層の相互批判を保障し、学問研究の民主的な体制を形成する。- 四. われわれは、平和を希求する広範な人々と共同し、大学人の社会的責務を果たす。
平和のための研究および教育の成果を広く社会に還元することに努める。そして、国民と地域住民の期待に積極的に応えることによって、その研究および教育をさらに発展させる。
科学の国際性を重んじ、平和の実現を求める世界の大学人や広範な人々との交流に努め、国際的な相互理解を深めることを通じて、世界の平和の確立に寄与する。- 五. この憲章の理念と目標を達成するためには、大学を構成する各層が、それぞれ固有の権利と役割にもとづいて大学自治の形成に寄与するという全構成員自治の原則が不可欠である。われわれは、全構成員自治の原則と諸制度をさらに充実させ、発展させる。
われわれは、この憲章を、学問研究および教育をはじめとするあらゆる営みの生きてはたらく規範として確認する。そして、これを誠実に実行することを誓う。
(1987年2月5日 名古屋大学豊田講堂にて制定宣言)
この記事の担当者
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弁護士は、様々な相談事やトラブルを抱えた方に、法的な観点からアドバイスを行い、またその方の利益をまもるために代理人として行動します。私は、まず法律相談活動が弁護士として最も重要な活動であると考えています。不安に思っていたことが、相談を通じて解消し、安心した顔で帰られる姿を見ると、ほっとします。
また、民事事件、刑事事件など様々な事件を通じて、依頼者の立場に立って、利益を実現することに努力します。同時に、弁護士としての個々の事件を通じて、社会的に弱い立場にある方の利益を守ったり、社会的少数者の人権を擁護することを重視しています。
そのような観点から、弁護士会や法律家団体などでの活動にも取り組んでいます。
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